【この記事の監修:司法書士國松偉公子】
「親が認知症と診断された。今からでも遺言書を書いてもらえるだろうか」「すでに作ってある遺言書は、認知症だった頃のもの。これは有効と言えるのか」
相続を控えた家族からこうした不安を聞く機会は、近年急速に増えています。
厚生労働省研究班の最新推計によると、2025年時点で65歳以上の認知症患者は約471万6,000人にのぼり、2050年には586万人を超えると見込まれています。65歳以上の8人に1人が認知症という時代のなか、「遺言書と認知症」は誰の家族にも関わるテーマになりました。
結論を先にお伝えすれば、認知症と診断されていても、遺言書は無効になるとは限りません。鍵となるのは「遺言能力」があるかどうかであり、認知症の有無ではなく、遺言を作成した時点での判断能力の状態が問われます。
ただし、認知症が進行してから作成された遺言書は、後日「遺言能力がなかった」として無効を主張されるリスクを抱えます。そうした紛争を防ぐためには、医師の診断書・公正証書遺言・遺言内容のシンプル化など、いくつもの実務的な手当てが必要になります。
本記事では、認知症の方の遺言書が有効と認められる基準、無効と判断されやすい状況、そして家族として準備すべきポイントを、相続実務の現場目線で詳しく解説します。
認知症と診断されても遺言書は無効になるわけではない

「認知症の人が書いた遺言書は無効」と思い込んでいる方は多いのですが、これは正確ではありません。民法第963条は「遺言者は、遺言をする時においてその能力を有しなければならない」と定めており、判断の基準は遺言を作成した時点の遺言能力の有無にあります。
つまり、認知症と診断されているかどうかではなく、遺言書を書いたまさにその瞬間に「自分が何を遺言しているか理解していたか」がすべてです。診断書に「アルツハイマー型認知症」と書かれていても、症状が軽度で日常の判断能力が保たれていれば、遺言は有効と認められる可能性が十分にあります。
逆に、認知症の診断を受けていなくても、認知機能の著しい低下があった状態で作成された遺言書は無効と判断されることがあります。診断の有無は決定打ではなく、あくまで一つの判断材料に過ぎないのです。
ここで重要なのは、認知症は「ある日突然完成する病気」ではないという点です。軽度認知障害(MCI)から軽度認知症、中等度、重度へと段階的に進行するため、「どの段階で遺言を書いたか」が後日争われる構造になりやすいのが実情です。
遺言能力とは何か

遺言能力とは、自分の遺言が法律上どのような意味と効果を持つかを理解し、その判断にもとづいて意思決定する能力のことを指します。専門用語では「意思能力」とほぼ重なる概念で、契約や法律行為を行うために必要な精神的能力の一種です。
民法第961条が「15歳に達した者は、遺言をすることができる」と定めていることから、遺言能力は通常の行為能力(法律行為を単独で行える資格)とは別の、より緩やかな基準で判定されます。たとえば成年被後見人(重度の認知症等で成年後見が開始された人)であっても、医師2名の立会いと「事理を弁識する能力を一時回復した時」の条件を満たせば遺言が可能です。(民法第973条)
この緩やかさの背景には、「遺言は人生最終の意思表示であり、本人の真意を可能な限り尊重すべき」という相続法の理念があります。一律に「認知症だから無効」とせず、個別に判断するのが原則です。
ただし、遺言能力の有無は最終的に裁判所が個別事案ごとに総合判断するため、「何点以上なら有効」といった明確なラインは存在しません。後述する複数の要素を組み合わせて評価される、いわばグラデーション型の判定になります。
遺言能力の判断に使われる5つの要素

裁判で遺言の有効性が争われた場合、裁判所は以下の要素を総合的に検討します。それぞれが独立して結論を導くわけではなく、複数の要素が積み重なって判断材料となります。
要素1:遺言時の心身の状況(医療記録・介護記録)
最も重視されるのが、遺言作成日前後の医療記録・介護記録です。主治医のカルテ、介護施設のケース記録、デイサービスの記録などから、遺言者がその時期にどの程度の判断能力を保っていたかが推測されます。
「この日は意識が明瞭でデイサービスでの会話も問題なかった」「同日に通院し医師の問診にも適切に応答していた」といった記録があれば、遺言能力を肯定する有力な証拠になるでしょう。逆に「同時期に被害妄想が見られた」「家族の顔がわからなくなる場面があった」といった記録は、無効の方向に働きます。
要素2:長谷川式認知症スケール(HDS-R)の点数
医療現場で広く用いられる認知機能評価指標が長谷川式認知症スケール(HDS-R)です。30点満点で、20点以下が認知症の疑い、10点未満は重度認知症の目安とされています。
裁判実務では、目安として1桁台(10点未満)であれば遺言能力が否定されやすく、20点前後であれば内容がシンプルな遺言なら有効と認められやすい傾向があります。ただし、長谷川式の点数だけで結論が出るわけではなく、あくまで判断材料の一つです。
ここで実務的に重要なのは、遺言作成と近い時期(理想的には同日)にHDS-Rを実施しておくことです。半年以上前の点数では、遺言作成時点の能力を立証する力が弱くなってしまいます。
要素3:遺言内容の複雑性
遺言の内容がシンプルか複雑かは、要求される判断能力のレベルに直結します。「全財産を妻に相続させる」程度の遺言であれば、軽度認知症の段階でも理解できる範囲ですが、「不動産Aは長男、預貯金は二男と三男で4対6に分け、株式は孫に遺贈する」といった複雑な配分は、相応の認知機能が必要です。
裁判所は「この内容を理解するのに必要な認知能力を、遺言者が当時持っていたか」という観点で判断します。同じ点数の遺言者でも、シンプルな遺言は有効、複雑な遺言は無効、という結論が分かれることは珍しくありません。
要素4:遺言内容の合理性・自然性
「なぜこの配分にしたのか」が合理的に説明できるかも重要なポイントです。長年献身的に介護をしてきた次男に多めに渡す、疎遠だった長男には遺留分相当のみ、といった配分であれば、家族の歴史と照らして自然な遺言と評価されます。
逆に、それまでまったく付き合いのなかった親戚に全財産を遺贈する、特定の相続人だけを完全に排除するといった内容で、合理的な動機が説明できない場合は、「誰かに操られて書かされたのではないか」と疑われる余地が生まれます。
要素5:作成過程と周囲の関与
誰がどのように遺言作成に関わったかも、重要な判断材料です。特定の相続人が遺言者を病院から連れ出し、その相続人に有利な内容で公証役場に直行した、といった経緯があれば、たとえ形式が整っていても無効と判断される可能性が高まります。
公証役場で公証人が直接遺言者に内容を確認する場面で、遺言者が公証人の質問に的確に答えたか、あるいは付き添いの家族が代わって答えていたかも、後日の重要な争点になります。
認知症の段階と遺言能力の目安

医学的な認知症の進行段階と遺言能力の関係を、実務的な目安としてまとめると以下のようになります。
軽度認知障害(MCI):HDS-Rが概ね21〜26点程度です。物忘れは目立つものの、日常生活には大きな支障がない段階です。遺言能力は基本的に保たれており、適切な手順を踏めば有効な遺言書を作成できます。むしろこの段階で遺言を準備することが望ましいでしょう。
軽度認知症:HDS-Rが概ね15〜20点です。日常生活に支障が出始める段階です。シンプルな内容の遺言であれば有効と認められる可能性が高い一方で、複雑な遺言は争いの種になりやすくなります。
中等度認知症:HDS-Rが概ね10〜15点です。判断能力の低下が明らかで、遺言能力の有無は個別判断が必要です。医師による精密な評価と公正証書遺言の組み合わせ、シンプルな内容に絞った上で慎重に作成すべき段階でしょう。
重度認知症:HDS-Rが10点未満です。原則として遺言能力は認められにくく、新たな遺言書の作成は事実上困難です。この段階に至る前に遺言を準備しておくことが、家族にとっての最善策と言えます。
公正証書遺言でも無効になる場合

公正証書遺言が無効と判断された判例の多くは、次のような共通点を持ちます。
公証人との打ち合わせや読み聞かせの場面で、遺言者が公証人の質問にほとんど答えられず、付き添いの相続人が代わって答えていた、遺言作成の数日後に医師から重度認知症と診断された、遺言内容が極めて複雑で、当時の判断能力では理解できないと評価されたなどです。
公証人は法律のプロですが、医師ではありません。短時間の面談で認知機能を正確に評価することには限界があります。「公正証書だから絶対に有効」と過信せず、後述する補強的な手当てを併用することが実務上重要です。
認知症の家族に遺言書を書いてもらうときの実務的な準備

ここからは、認知症の家族に遺言書を作成してもらう場合、あるいは将来の認知症リスクに備えて遺言書を準備する場合の、具体的な実務的手当てをお伝えします。
タイミングはとにかく早く
最も重要な原則は、「遺言能力があるうちに、できるだけ早く作成する」ことです。MCI(軽度認知障害)や軽度認知症の段階であれば、遺言能力は基本的に保たれており、後日の紛争リスクも低く抑えられます。
「まだ元気だから先でいい」「家族に切り出しにくい」と先送りしているうちに認知症が進行し、結局作成できなかったという事例は枚挙にいとまがありません。70代に入ったら、健康なうちに遺言書を準備しておくのが望ましいでしょう。
公正証書遺言を選ぶ
認知症のリスクがある方の遺言は、自筆証書遺言ではなく公正証書遺言一択と考えてよいでしょう。公証人が遺言者に直接意思確認を行うこと自体が、後日の有効性立証における強力な証拠になります。
公証役場では、認知機能に不安がある遺言者については、慎重な確認手順を踏むのが通常です。公証人が「遺言能力に疑問あり」と判断した場合は、その場で作成を見送ることもあります。これは形式的にはネガティブに見えますが、無効な遺言書が後日紛争を生むリスクを未然に防ぐ意味では合理的な対応と言えるでしょう。
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医師の診断書を遺言と同時期に取得する
遺言作成日に近い時期(理想的には同日)に、医師による診断書とHDS-R等の認知機能評価を取得しておくと、後日の無効主張に対する強力な防御材料になります。
「遺言作成当日に診察を受け、医師から『判断能力に問題なし』とのコメントを得た」という記録があれば、後で相続人が「あの時は認知症だった」と争おうとしても、客観的な医学的記録が反証として機能します。
遺言内容をシンプルにする
複雑な遺言は理解にも記憶にも認知負荷がかかり、後日「本人は内容を理解していなかった」と主張されやすくなります。認知症リスクがある場合は、配分を可能な限りシンプルにし、相続人ごとに「何を相続させるか」を明確に分けるのがコツです。
「自宅は妻、預貯金は子ども2人で半分ずつ」程度のシンプルな構成であれば、軽度認知症でも本人の意思として認められやすいでしょう。
作成過程を記録・録画する
公証役場での読み聞かせや署名捺印の様子を、家族の了承を得て録画しておく方法もあります。後日の紛争で「本人は内容を理解していた」を視覚的に立証できる強力な証拠になります。
最近では公証役場側もデジタル化が進んでおり、令和7年10月からの公正証書のデジタル化により、Web会議システム経由での作成も可能になりました。作成過程の記録性は飛躍的に高まっています。
遺言執行者を指定する
認知症リスクのある遺言者の場合、相続発生後に他の相続人から無効主張が出やすいため、中立的な遺言執行者を指定しておくことが特に重要です。司法書士や弁護士など専門家を指定しておけば、無効主張への対応や手続きの円滑な進行が期待できます。
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すでに認知症の家族の遺言書を作りたい場合

「すでに認知症の診断を受けている家族に、これから遺言書を書いてもらいたい」という相談も少なくありません。この場合、上述の手当てに加えて、次のような追加対応が必要です。
まず、複数の医師による遺言能力の評価を取得します。主治医に加えて、可能であれば精神科や老年科の専門医にも評価を依頼し、複数の医学的意見を揃えておくと、後日の主張が格段に強くなります。
次に、公証人との事前打ち合わせを通常より丁寧に行い、公証人自身が遺言者と何度か面談する機会を設けてもらうのが理想です。公証人の「遺言能力ありと判断した」という証言は、有効性を支える最重要証拠の一つになります。
加えて、遺言内容についても、認知症が進行する前の本人の意向と整合性が取れているかを確認します。「以前から長男に家を継がせると言っていた」「介護をしてきた次女に多めに渡すと家族会議で話していた」といった経緯が記録されていれば、遺言内容の自然性を裏付ける材料になります。
それでも遺言能力に重大な疑義がある場合は、遺言だけではなく家族信託や任意後見契約といった別の制度の利用も難しくなります。これらは遺言と異なり、本人の生前から効力を発揮し、財産管理を信頼できる家族や専門家に委ねる仕組みですが、遺言能力と同等以上の契約締結能力が必要になるからです。
遺言書の有効性に疑問を感じたら

亡くなった家族の遺言書を見て「認知症だったはずなのに、こんな複雑な内容を理解できたのか」「特定の相続人だけが極端に有利な内容で不自然」と感じた場合、その遺言書の有効性を法的に争う方法があります。
まず取り組むべきは、当時の医療記録・介護記録・公証役場での作成経緯などの証拠収集です。これらを踏まえて、弁護士に依頼して「遺言無効確認調停」を家庭裁判所に申立てる、あるいは調停不成立の場合は「遺言無効確認訴訟」を地方裁判所に提起することになります。
ただし、訴訟は数年単位の長期戦になるケースが多く、家族関係が決定的に悪化するリスクも伴います。可能であれば、まずは相続人間での話し合いや、調停による解決を優先することをお勧めします。
なお、遺言が無効と判断されなかった場合でも、遺留分侵害額請求(遺言で侵害された最低限の取り分を金銭で取り戻す制度)という選択肢があります。遺言の有効性を争うほどの確証はないものの、自分の取り分があまりに少ないと感じる場合は、こちらの請求を検討するとよいでしょう。
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【この記事の監修:司法書士國松偉公子】プロフィールはこちらに掲載されています。事務所概要 – 国松司法書士法人【国分寺駅南口2分】
この記事の監修者
国松司法書士法人(クニマツシホウショシホウジン)
行政書士国松偉公子事務所
オールフォーワン土地家屋調査士事務所
代表者
國松 偉公子(簡易裁判所代理権あり)
兵庫県神戸市生まれ。神戸高校、大阪大学卒業後上京。民間企業勤務を経て司法書士資格を取得。平成12年に東京都国分寺市内で司法書士国松偉公子事務所を開業。国分寺市を中心とした東京多摩地域で、開業当初から相続に力を入れ、遺言・成年後見・家族信託という相続周りの業務含め26年間で2万件を超える相談、手続実績を重ねた。その間、ワンストップサービス実現を目指し、行政書士資格、土地家屋調査士資格を取得し、事務所を併設、合わせて司法書士事務所を法人化。ハウスメーカー、金融機関、会計事務所、不動産会社等との強固な信頼関係を築きながら、エンドユーザーである個人顧客の遺言作成支援や家族信託の組成等の生前対策に力を入れている。共著に「相続手続きと生前対策ハンドブック」「相続の基本と最新対策がわかる本」(いずれも株式会社アックスコンサルティング 出版局)「地主のための相続対策」(幻冬舎)がある。
資格
司法書士(東京司法書士会所属)、土地家屋調査士(東京土地家屋調査士会所属)
行政書士(東京都行政書士会所属)、民事信託士(一般社団法人民事信託推進センター)
成年後見人名簿・成年後見監督人名簿登載(家庭裁判所)
相続アドバイザー(NPO法人相続アドバイザー協議会)
財産管理マスター(一般社団法人日本財産管理協会)
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